2015年3月15日日曜日

日本人居住区(コロニア・ハポネサ)


日本ではブラジルへの移住が有名ですが、戦後日本の経済が厳しい頃に、中南米への移住政策が行われました。JICAは今でこそ国際協力機関として名を知られていますが、その当時は外務省の一機関として移住政策を担っていました。ドミニカ共和国へは、1956年から1959年にかけて、特に貧しかった関西・九州の県から農業者を中心として249家族が移住しました。
しかし、実際に到着した移住者に分け与えられた土地は、応募時の条件とは全く違い、岩だらけや塩害、粘土層の土地で農耕には全く適さないものでした。またドミニカ国政府は、当時緊張状態にあったハイチとの国境地域に、人の盾として日本人移住者を受け入れたため、辺境の地での略奪や生活の困窮から、自殺者も出るほどの厳しい生活を強いられます。移住政策は失敗し、8割が帰国・他国への再移住という結果になってしまいます。多くの人がこの国を去る中、他国へ移住する資金も無く、日本へ戻るに戻れない人達もいました。彼らは、離農し別の事業で生計を立てたり、別の地域で農業に携わり大変な苦労をされながらもこの国に根付いていきます。2000年から2006年にかけては、国を相手に訴訟も行われました。

ダハボンも、この移住政策で受け入れられた地域の一つです。ダハボンへは当時29家族が移住し、今現在でも約7家族が残っています。 (移住者同士や現地の人と結婚されたり正確に何家族とは数えることは難しいです) 
ダハボンでJICAボランティアをしていると、移住者の方や日本人の名前を持つ混血の日系2世3世との出会いが沢山あります。  町の中心から少し離れたところにある日本人居住区には、お墓や日本語学校があり、移住者の方達によって、大切に運営されています。


オハカ(お墓)
オハカの周りは、見晴らしの良い一面の草原になっています。


この国へ来て、実際に移住地を見たり、実際に移住者の方達と関わり、今まで以上に、自分が日本人であることの重さを感じるようになりました。基本的にこの国では、アジア系の顔はいっしょくたにチノ(中国人)扱いですが、ダハボンでは日本人だと分かると、とても好意的な対応を受けることが多いです。それも、地域に根付き、長きにわたってビジネスや行政の分野で貢献され、信頼を築き上げてこられた移住者や二世三世の方達のおかげです。 今でも市内から離れ、一番遅い時間帯まで電気が来ない日本人居住区に行く度に、移住の時代の生活が想像され、いつも頭が下がる思いがします。


今でも日系3世4世へ日本語授業が行われています。           ガッコウ(公民館兼日本語学校)

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