2015年11月17日火曜日

国内最大手スーパーへの納品

 
 
この国で一番チェーン数が多く、店舗も大きく、そして値段・客層もハイクラスの最大手スーパー、ナショナル。

今年の5月から、活動先NGOがこのスーパーと取引することになり、私も納品に同行しています。

さすが、国を代表するスーパーだけあって、納品の日には、コンテナ車がズラッと並ぶ様子は壮観です。
中も近代的で、パレットの取り扱いやバーコードによる注文数との整合確認等、日本やアメリカの管理システムとほとんど変わりません。


 
活動先のNGOの小さなトラックで、大きなコンテナ車の合間をぬって納品しにいきます。

最初はハチミツ・ピーナッツ合わせて約50~80ケース/回と少なかった注文数も、

だいぶん増えてきて、今では一回の納品数が約180ケースくらいになりました。


 
 








それにしても、ダハボンを朝4時に出て、8時半首都サントドミンゴ着、倉庫への納品を済ませ、

容器・包材買付、時には商談や会議に出席し、昼過ぎにはダハボンへ向けてトンボがえり

という道のり、一日600km。

夜8時に家に帰りつくころには、体力的にはかなりへとへとです。

でも、代わるがわる運転手を務める、活動先NGOの同僚や生産者の人とお喋りしたり、愚痴を言い合いながらの長距離ドライブは、私にとっては同じくらい楽しく、沢山の話が聞ける大事な時間でもあります。
 

2015年11月3日火曜日

蜂蜜のボトル詰め



ハチミツのボトル詰め風景。ボトル詰め専用の工場ができたから、手作業でのボトル詰めもこれで最後?























前任ボランティアの始めた蜂蜜の小売り販売プロジェクト。

上は昨年の2月24日(火)の風景。
みんなでハチミツのボトル詰め(バリエント、キルシー、オスカル、近所の子供も)作業。

これまで、手作業で蜂蜜をボトル詰めし、地元のホテルやスーパー等に販促していたのですが、
その後、EUの国際協力プロジェクトで立派な濾過・パック工場が建設されました。
 
 





今年5月からは国内最大手スーパーとの取引も始まり、組合の人達と私もいつもここで働いています。

2015年10月30日金曜日

ダハボン生活 2年目を迎えて


協力隊員として、この国へ来て早一年、私にとって、すごく濃厚で長い時間だったと思います。


本当に沢山の人達との出会いがあり、


活動でもプライベートでも、色々な人にお世話になりながら、


忙しく充実した一年を過ごしてきました。


ブログが全然更新できていないので、もうちょっと頑張ります・・・。。。何かあったかと心配してくれてる方ごめんなさい&ありがとう。色々ありますが、健康に毎日過ごしてます!!


あと11ヵ月!!! 日本に帰るまで頑張るぞ!!!

2015年4月7日火曜日

二国間メルカド②メルカド全図

私の住んでいる町ダハボンは、ドミニカ共和国の西北端、

マサクレ川によって分断されているハイチとの国境には、歩いて10分でいける距離にあります。
ダハボンの地図、中央やや左の黒い線が国境   



国境では、貿易が行われている他、Mercado binacional(二国間市場)と呼ばれる、ハイチとドミニカの両方の一般の人が入ることができる商業ゾーンがあります。
Mercado Binacional(二国間市場)


国境の門
国境の門からダハボン市内へ続く道、右側に検問と税関、左側が二国間市場 




























今回は、ダハボンの経済にとってなくてはならない、二国間市場(メルカド)について、紹介します。


二国間市場はハイチからダハボン側に国境を渡ってすぐの場所に、塀に囲まれて建っています。ここでは、ビザをもっていないハイチ人も自由に入って小規模なビジネスを行うことができます。
塀の中の全図↓
二国間市場全図 広い!!

赤や青の一つ一つの小さな枠は、全部メルカド内の店舗です。(屋外)
そして、中央からやや左側に向かって、ミドリ色の枠に囲まれたT字型の部分が、体育館のような建物になっていて、その中にも沢山の店舗が入っています。

右下の、黄緑色で矢印が書いてある2つの部分が、正面門と裏門です。



門から入ると、

熱気と人の大声ですごい。人がピークの時間帯には、おしくら饅頭状態、人人人がぶつかり合って、言い争ったりしていることも日常茶飯事です。
荒っぽい人も、スリも、建物の中よりも外のエリアの方が多い気がします。



建物の中は、こんな感じ
一階から二階に上がる階段から見下ろして

一階には、靴、かばん、日用品等の売り場が
歩きながらニンニクを売るハイチ人も


 二階は、衣服・布製品がメイン     

一階の一区画に、私の配属先の運営するブースがあります。ここで、週二回(月・金)、ダハボンの地産品(ヨーグルト、ハチミツ、フルーツジャム、ピーナッツ)を販売しています。
若干薄暗く、暑い日は蒸しますが、日差しを遮れる分屋外より快適です。


           ブースから見える景色、朝早く、国境の門が開く前は人が少ない


屋外の野菜売り場
いつもここで、トマト、ナス、おくら等を買って帰ります。


二国間市場で働いていると、いつでも衝撃的な出来事や印象的なエピソードにめぐり合い、いつまでも飽きることがありません。
ハイチの人達との交流や、二国間市場のお買いもの事情については、また別に書いていきたいと思います。

2015年3月15日日曜日

日本人居住区(コロニア・ハポネサ)


日本ではブラジルへの移住が有名ですが、戦後日本の経済が厳しい頃に、中南米への移住政策が行われました。JICAは今でこそ国際協力機関として名を知られていますが、その当時は外務省の一機関として移住政策を担っていました。ドミニカ共和国へは、1956年から1959年にかけて、特に貧しかった関西・九州の県から農業者を中心として249家族が移住しました。
しかし、実際に到着した移住者に分け与えられた土地は、応募時の条件とは全く違い、岩だらけや塩害、粘土層の土地で農耕には全く適さないものでした。またドミニカ国政府は、当時緊張状態にあったハイチとの国境地域に、人の盾として日本人移住者を受け入れたため、辺境の地での略奪や生活の困窮から、自殺者も出るほどの厳しい生活を強いられます。移住政策は失敗し、8割が帰国・他国への再移住という結果になってしまいます。多くの人がこの国を去る中、他国へ移住する資金も無く、日本へ戻るに戻れない人達もいました。彼らは、離農し別の事業で生計を立てたり、別の地域で農業に携わり大変な苦労をされながらもこの国に根付いていきます。2000年から2006年にかけては、国を相手に訴訟も行われました。

ダハボンも、この移住政策で受け入れられた地域の一つです。ダハボンへは当時29家族が移住し、今現在でも約7家族が残っています。 (移住者同士や現地の人と結婚されたり正確に何家族とは数えることは難しいです) 
ダハボンでJICAボランティアをしていると、移住者の方や日本人の名前を持つ混血の日系2世3世との出会いが沢山あります。  町の中心から少し離れたところにある日本人居住区には、お墓や日本語学校があり、移住者の方達によって、大切に運営されています。


オハカ(お墓)
オハカの周りは、見晴らしの良い一面の草原になっています。


この国へ来て、実際に移住地を見たり、実際に移住者の方達と関わり、今まで以上に、自分が日本人であることの重さを感じるようになりました。基本的にこの国では、アジア系の顔はいっしょくたにチノ(中国人)扱いですが、ダハボンでは日本人だと分かると、とても好意的な対応を受けることが多いです。それも、地域に根付き、長きにわたってビジネスや行政の分野で貢献され、信頼を築き上げてこられた移住者や二世三世の方達のおかげです。 今でも市内から離れ、一番遅い時間帯まで電気が来ない日本人居住区に行く度に、移住の時代の生活が想像され、いつも頭が下がる思いがします。


今でも日系3世4世へ日本語授業が行われています。           ガッコウ(公民館兼日本語学校)

2015年3月14日土曜日

ダハボンの貧困家庭


ダハボン市から車で約30分、そのほとんどが山と森林に占められているレストラシォン市に入る
少し手前の道路沿いの丘に、私のホストファミリーが定期的に訪問している貧困家庭の小屋がある。




一回目はクリスマスの時に家族と一緒に、そして二回目は知り合いの車に乗せてもらって一人で、
私もこの家庭を二回訪問した。

床が無く、トイレ支援団体によってつくられた家。
初めて行った時は、ダハボン市内なかなか見かけない、水も電気も無い暮らしぶりに、けっこう衝撃を受けた。ホストファミリーは、毎回食糧やお金を渡していて、私もそれにならってコーンフレークや缶詰等を沢山買っていった。

 
電気は無く、家の中は暗いが、ドアを開けると日差しがまぶしい
水置き場

台所。食器は貯め水で洗う

この家には、おばあちゃんと孫が住んでいて、私のスペイン語レベルでは詳しい状況は分からなかったが、もともとホストファミリーの持っている畑で働いていた人の関係知り合ったそうだ。

 お母さんは育児を放棄していなくなってしまったらしく、お父さんは近くの山の斜面でキャッサバを栽培していた。おばあちゃんも、女の子もとても明るくて素敵な家族


キッチンも圧力鍋も無く、たき火で何時間も豆を煮ていて、その様子を見ながら、

こんなに少ない貯め水で身体を洗うのは大変だろうなとか、夜に虫や動物は入って来ないのだろう
とかハリケーンが来たらどうするのだろうか、とかその暮らしぶりに考えを巡らせた

家の外にあるたき火のかまど            支援によってつくられたトイレ



二回目に行った時は、一緒に折り紙をしたり、パソコンでアニメを見せたり、お絵かきをしたりした。



近所の人や近くに住んでる親戚?達も集まってきてみんなに興味津々囲まれながら、私も日本の家族友人の写真をみせたり、日本の話をしたりする

女の子はちゃんと学校には行っていると聞いてほっとする。
 
前回撮った写真をプリンター印刷していったら、とても喜んでくれて、家にれるように余白の部分にシールやお絵かきをしもらった。
私のホストファミリーと前回撮った写真
こんな風に働くこともできない子供やおばあちゃんは、どうやって人生計画を立てるのだろう、支援する側は何をしたらよいのだろう。二年後私が日本に帰るときには彼らの生活は変化しているのだろうか。

ダハボンで彼らとの関係が続くかぎりこれからも彼ら訪問していきたいと思う。